1月の日記

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あなたに伝えたい
    
私がこの記事を書こうと思い立ったのは、愛する人を突然亡くした人と同じ思いを共有することで
息をするのも苦しいその時期に、少しでもお役に立てたらと思うからです。
もう一つは、その時に孫達が見せてくれたやさしい思いやりを、忘れないでいたいと思うから…
そして、ある1通の手紙に救われた事も、あなたに伝えたい。
今悲しみの最中にある人は、他人のHPなど見る余裕がないのは当たり前です。
もしあなたの近くにそんな人がいたら、ぜひ教えてあげて欲しいのです。
末尾に、その頃の私が読んだ本を紹介します。
何を見ても、何をしていても息をするのも苦しくて、ただ死ぬことだけを考えていたあの頃に、
本を読むことで何とか、一刻一刻ををやり過ごす事が出来ました。
このページがあなたの1歩を踏み出すきっかけになってくれたら、幸いです。

あの日から

X'masだ、お正月だと世間が浮かれだすと、私の憂鬱はMAXになる。
あれから何年たったのだろう…
あの日から私の時間は止まったままだ。
この胸のどこかにぽっかりと穴があいて、冷たい風が吹いている。
それは何年経っても塞がる事はない。
あの日から私は年賀状を書くのをやめた。
12月31日の昨日が終わって1月1日の今日が始まったからと言って何がおめでたいのだろう。
年が明けたからと言って、Rheuが甦ってくるわけではない。
1年にたった1度で良いから、成長したRheuに逢いたいなぁ。

忌まわしい日

2010年12月12日(日曜日)、風ひとつない暖かい日に、Rheuは天国へ召されていった。
孫達3人(兄と妹達)が、外で楽しく遊んでいた時に事故は起こった。
家族はみんな出かけていて、私1人が家に居たが台所に居て異変に気付かなかった。
庭先で倒れているRheuを発見して救急車を呼んだが、蘇生処置の甲斐もなく再び目を覚ます事は
なかった。

なんで年老いた私ではなく、たった5歳のRheuの命が召されたのでしょう。
立ち会い出産で、おギャーと生まれたその日から、育児に参加してきた。
かわいくてかわいくて、目の中に入れても痛くないとはまさにこの事で、Rheuのの為なら私の命など
いつでも引き換えにできると思っていた。
Rheuは「YK(4歳)とSK(3歳)(妹達)は僕が守るから、ばあちは僕を守ってネ」と常々言っていた。
私は「ばあちの命に代えてもRheuを守るよ」と固い約束をしていたのに、一番肝心な時に
約束を守る事ができなかった。
みんなが私は「良くやっていた。良く子供の面倒を見ていた」と言ってくれるけれど、Rheuの命を
守れなかった以上、私が今までして来た事は何の役にも立たないのだ。
主人には主人の思いがある。孫を失った悲しみは私とどれほどの変わりもない。
Rheuは孫とはいえ私達には、自分の子供以上の存在だった。
その日から、私と主人は後悔して後悔してどんなに悔いても悔い足りない日々を過ごし、今日まで
失意の中で生きてきた。
元嫁からは、恨まれて慰謝料を請求され、息子からは疎まれた。
誰に言われるまでもなく、事故の責任はわたしにある。それは私が一番わかっている。
それでも、皆勝手すぎはしないかい?
勝手の良い時ばっかり私に預けておいて、ひとたび事が起きると、まるで自分達には何の責任も
ない様な顔をして、私ばかりを責めるその姿勢は、親としてどうなの?と思わずに居られない。
私が子供達と家で留守番をしていた時にあなた達は、何をしていたの?
母親である嫁が子供達を置いて家を出なければ、こんなことにはならなかったと、ホンの一欠けらも
思わない?!
自分の責任を逃れたいわけではない。
本気でRheuの死を悼むなら、人を責めてばかりいては、いつまでたっても悲しみから
抜け出せないのではないかと言いたい。
断じて自分の罪を軽くしたくて、言っているわけではないのだ。

Rheuの居ない世界はまるで色のない世界で、何の感動もなくただただその日を凌いできた。
私はRheuの所に行きたくて、行きたくて…
Rheuと一緒に賽の河原で石を積んで遊びたい。
Rheuと手をつないで三途の川を渡りたい。Rheuをおんぶして歩きたい。
妹達にはパパと新しいママが居る。
でもRheuはたった一人で逝ってしまった。
私が行ってやらなければ、Rheuがどんなにかさびしい思いをしている事だろう。
主人は「1人で死ぬな、死ぬ時はおれも一緒だ。」と私に言う。
60余年間好き勝手に生きてきて、この世に思い残すことは何もなく、いつ死んでも良いと思って
いたが、孫ができたからもう少し長生きしてみようと欲を出しただけ。
「ぼくが18歳になったら最初にばあちを助手席に乗せてあげるネ」と言ったRheuはもういないし、
残された孫達も元嫁に引き取られるのなら、私は生きている価値もない。
こんな軽い命だから、いつだってRheuにあげるのに、なんで私の命に代えられないの?と、
1人になるととめどなく涙がこぼれて止まる事を知らなかった。



1通の手紙

20年くらい前に、私の姪が当時2歳の娘を家庭内の事故で亡くした。
その時家には姪を始めみんな揃っていたが、ちょっと目を話した隙の出来事だったのだろう。
病院で蘇生したけれど元の元気な姿に戻る事はなかった。
姪はその後何年も娘の世話にかかりきりで、実家に帰って来る事も出来なかった。
その何年後かに幼い娘は遠い所に旅立っていった。
今年その姪から年賀状がきていて、「今介護の仕事をしていて、Kiy(娘の名前)の時の事が役に
立っていますと書かれていた。
私とよく似た状況にある彼女の姑と彼女達家族がどのようにして、立ち直ったのか教えて欲しいと
手紙を書いた。
元嫁が1年前に子供たちを置いて出て行った後、「帰っておいで」といくら言っても帰ってこなかった事。
離婚が成立してから1ヶ月に1度くらいの面会をしていたけれど、今回の事があったから裁判で
子供達を取り戻すと言っている事を付け加えた。
悲しみの中、何とかお葬式を済ませ7日ごとの法要は進んでいくけれど、いくら日にちがたっても昨日の
事のように鮮明で、悲しみは逆に深くなってしまう私は、何かにすがりたかった。
同じ悲しみを持つ彼女なら、何か糸口をくれるかもしれないと藁にもすがる思いだった。
携帯とパソコンのメルアドを教えたのに、4日ほど何の音沙汰もなかったので、あきらめかけた時に
1通の手紙が届いた。
私は読みながら、何度も中断して号泣した。
一部割愛して掲載したいけれど、一言一言がとても重要な意味を持っていて、省くところはどこにも
ないので全文を掲載する。

『前略、お手紙拝見しました。さぞつらい日々をお過ごしのことと思います。
あなたの悲痛な思いが手に取る様にわかるだけにつらくてたまりません。
大切なお孫さんの突然の不運に気持ちがついていかないのは当たり前です。
悲しみが日々強まっていくのも仕方のない事で、多分今が一番つらい時だと思います。
ありし日の姿を思い浮かべては泣き、好きだったおもちゃや食べ物、洋服を見ては泣き、同じ年頃の
子供や思い出の場所を見ては泣き、そしてふと喪失感にとらわれては、自分を責めて、責めて又泣く
のくり返しでした。いつまでたっても癒えない悲しみは永遠とも思われたけれど、その内悲しんでばかり
いてはいけないのだと思うようになっていったのです。
もちろん一気に気持ちを変える事は出来ないし、悲しみは消えたわけではないけれど私にはまだ大事な
子がいたし、私が悲しむ事で、責任の一端を感じている義母にも、つらい思いをさせたくないと思った
からです。もちろん恨む気持ちが微塵もなかったかと言えば嘘になりますが、彼女も自分の責任を
痛々しいほどに感じていただけに、責める気持ちは起きませんでした。
だからあの子が寝たきりになり、自由のきかない身体になった後も2人で協力して、乗り越えて行く事が
出来たんです。そしてお兄ちゃんのYHも、私が悲しんでばかりいては、つらい思いをするだけだし、
せめてこの子だけは守らなくてはいけないと思う事で、足踏み状態から一歩ずつ前に進んでいける
ように、前を向いて生きて行くことが出来たんだと思う。
自分を責める事は簡単だけれど、今思うとそれは自己満足に過ぎない気がします。
自分を責めたからと言って、あの子の死をなかった事にはできないし、そうする事で現実から逃れよう
としている様に思えるから…今はまだつらいと思います。でもそれで良いと思う。
今はかわいがっていたお孫さんの為に、たくさん泣いてあげて下さい。
そして今度は残された2人のお孫さんのために、少しずつ立ち直って、前に向かって進んでいって
ください。お嫁さんがどういういきさつで家を出たのか理由はわからないし、知りたいとも思わないけど、
一度子供を置いて出て行った彼女には、母親の資格はありません。
まして、一時期とはいえ、家族として暮らしていた人が悲しみ、苦しんでいるのに、育ててくれた事を
感謝するどころか、仇で返そうとしているのは、人としてもどうかと思います。
だからあなたは闘わなくてはいけないんです。残された2人のお孫さんのためにも。
そしてこのたちも同じように慈しんであげてほしい。亡くなった子を思うのと同じくらい、生きている
この子たちをこれからは大事にしてください。
今は無理でもいつか笑顔を取り戻してくれたら幸いです。
お嫁さんもきっと同じ様に悲しんだのでしょうか。我が子を思う気持ちはきっと変わらないとは思うけど、
何かが違うと、ちょっと腹が立ってきつい事を言ってしまったかな。真相はわかりません。
でもどんな理由があるにせよ、人の弱みにつけ込むような事はやってはいけない。
もし言えるのであれば、その事を伝えてあげて下さい。ちょっとだけ人生の先輩からの助言として
同じ子を亡くして母としてわかってほしいから。
おばさんももう自分を責めるのはやめてほしい。おばさんは悪くないとは言ってあげられないけれど、
すべてがおばさんの責任じゃない。他の人たちにも少しずつだけど、それぞれに責任があると思う。
だからもしおばさんを責める人がいたら「それは違う」と私が言ってあげる。
だから1人でかかえ込まないで。いつでも話を聞かせて欲しい。
そして「まだ悲しいけれど前に向かって進んで行けそうだよ」って思える時が来たら、声を聞かせて
下さい。私も今は悲しくて一緒に泣いてしまいそうだから心の準備が必要だしね。
おばさんはメールでも良いと言ったけど、メールだと早いけど、言葉を伝えるのは不十分だと思い、
手紙にしました。遅くなりましたが、私の思いが伝わるとうれしいです。
お体を大事になさって下さい。ではまた。』  2011年1月21日


姪の手紙にもある様に、全くその通りに私は毎日毎日Rheuを思って、雪が降れば泣き、SKと
YKが2人で遊んでいれば泣き(何でRheuはここに居ないのだろう?)特に暖かい日は外に出る
のも厭だった。(最も余程の用事がなければ外には出ないが。)
こんなにお天気が良くなければ…雨が降っていればRheuは死ぬこともなかったのに…
私なんかに命を預けたばっかりに、Rheuは逝ってしまった。親殺しの大罪人と言うが、私はそれより
もっと極罪人だと思い、なんであのとき側に居なかったのかと、後悔ばかりしていた。
必要に迫られて仕事に行ってはいるが、仕事中であれ何であれ、喪失感は常に付きまとい、片時も
頭から離れる事はなかった。
仏教の本を読み、この悲しみを癒す手立てを模索していたが、読経は故人のためでなく生きている
人のために読むのだと聞かされて愕然とした。
弥陀の本願によって、救いとられるとしても私には救われる値打ちもないと思う。
どこへ行くにもRheuを連れて行った。時々は妹達を出し抜いてRheuだけを、そっと外に連れ出すと
妹達に気付かれずに出てこれた事を「ぼく、おりこう?」と満面の笑みで聞く。
「うん、お利口だよ」と私は答える。Rheuはお利口と言われるのが大好きだった。
何を思っても何を見てもつながる先はRheuのことで、私は自暴自棄になっていた。
私には子供を育てる資格はないと思い、元嫁が欲しがるのなら渡してしまえと本気で思っていた。
人は言う。「あなたがそんなに悲しんでいたら、坊やが心残りで天国に行けないでしょ?」とか、「亡く
なった子をいつまで思っても帰って来るわけじゃないのよ。まだ2人も残された子供たちがいるのだか
ら、頑張らなきゃ」などと、親切ごかしに言ってくれるけど、「だったら自分の子供を亡くしてみなさい
よ」と言い返したくなる。
親切で言ってくれるのはわかるけれど、どれも空々しい。それ程に私の心は荒んでいた。

元嫁が出て行ってからの1年間はとても大変だったけれど、一度もこの生活がいやだと思った事は
ない。
この5年間はRheuにささげた5年だと言っても良いくらい、私はRheuと密着していた。
今思えばあの5年間が私にとって、最高の幸せの時だった。
私はRheuを亡くして生きる希望を失っていたが、、このたった1通の手紙によって救われたのだ。
姪はこの後、2人の子供に恵まれて、4人の子供を育ててきた。
同じ苦しみ悲しみを乗り越えてきた姪の言葉だからこそ、私は素直に聞く事が出来る。
私はこの手紙に勇気をもらった。
今私がしなければいけない事は、残された子供達と、もう一度一緒に生きること。
ばらばらになった家族の心を取り戻す事だと!悲しいのは仕方がない。泣いていても良いけれど
やる事はやらねばと私は強く心に誓った。
この手紙はそれからいつもバックの中に忍ばせて、くじけそうになると取りだして何度も何度も
読み返し、私のお守りとしている。
ママと一緒に住むのが子供達の利益になると裁判所が判断するのなら、甘んじよう。
それがRheuを死なせてしまった私の罰として、一生背負っていこう。
けれども闘わずして「はいそうですか」と渡すわけにはいかない。
Rheuは妹思いの優しい子だった。たった5歳で逝ってしまったけれど、私達に沢山の幸せをくれた。
大好きな家族がバラバラになって、妹達を路頭に迷わすような事をRheuが望むはずがない。
今私達がやろうとしている事は、自分のエゴに過ぎなくて子供の利益なんか、これっぽっちも考えて
居ないのではないか。子供にとって何が本当の幸せなのかちゃんと考えてやらなければ。。
本当のママと暮らす事が子供達の利益になるかどうかはわからないから、それは裁判所の判断を
仰ぐとしても、今私達がやらなきゃいけないのは、家族が一致団結して裁判を闘う事だと主人に告げ
た。



SK川崎病に罹る

2010年12月27日にSKが川崎病の疑いで入院した。
心臓の冠動脈に瘤が残る後遺症を残す、1〜4歳の小児に起こる、とても怖い病気だ。
40度の熱が数日続き、解熱剤を使ってもせいぜい38℃くらいまでしか下がらない。
入院の3日前に発熱して小児科に連れて行ったが、特にのども赤くなくインフルエンザでもなく、
熱が下がらなかったら又連れてきてと言われ、翌日が日曜日だったので月曜日になるのを待って
連れて行ったら、CRP(炎症反応)が0、4以下が正常のところ16もあり、白血球も20,000位(2〜3倍)
あると言うので、急遽M総合病院に紹介された。
血液検査の結果、肝機能障害もあり川崎病の疑いもあるので、そのまま入院となった。
私は川崎病でない事を願ったが、入院の翌日に心エコーで心臓に軽い炎症がみつかり確定診断
された。私は早速インターネットで調べた。
10,000万人に1人がかかると言われ、動脈瘤ができると血液をサラサラにする薬を飲み続けなけれ
ばならないが、不幸にもその内の10%が心筋梗塞などで死亡すると書いてあった。
主な症状は先の3つと、発疹、イチゴ舌、手足の指の皮が剥けると書いてある。
病院は完全看護だけれど、小児なので親の付き添いが必要で、私とY(現在の嫁)が2〜3日おきに
泊った。
ちょうど年末年始の休みに入るときだったので、SKについていてやれる時間が全入院の半分
位は取れた。
あの食欲旺盛なSKが、熱のせいか何を見ても「いらない」と首を振る。
水分を摂らせようとしてもほんの一口飲んだら、後はもう見向きもしない。
熱のせいで黒目が上に上がっていて、トロンとしている。
点滴は24時間持続で、寝る時もずいぶんとルート(点滴の管)に気を使ったものだ。
最初の穿刺は上手くいったようだけど、入院してからは漏れて腕が腫れたので、一旦針を
抜いて挿しなおしたけれど、もともとぷにぷにの腕なので、中々穿刺が上手くいかず遂に足に針を
刺される羽目になった。

川崎病の治療にはガンマーグロブリンの血液製剤が必要だが、人の血液を使う以上アレルギー
反応の心配もあり、同意書を書かされた。
万が一アナフラキシーショック(血圧が急激に下がり、呼吸困難、多臓器不全で死を招く)がないとも
限らず、何とも暗澹とした気持で治療を受けた。
が、それを受けなければ回復は望めない。選択の余地は端からないのだ。
私はこの上SKまで失うようなことがあったらと、心配で心配でもう生きた心地もなかったけれど
皮肉なことに病院でSKの側に居る時だけが、心安らかだった。
SKの心配をする事でとりあえずは、Rheuの居ない現実から逃れる事が出来たのだろう。
けれども一旦家路に着くと、涙がとめどなく溢れ胸が苦しくて息ができなくなるほどだった。
それは、SKのそばで現実から逃げていた分の反動が一気に押し寄せてくるようだった。
そして又、みんながSKにつきっきりだったので、YKはじいちゃんと留守番だったり、
パパとYに付いて病院に来たりで、ずいぶん寂しい思いをさせた事だろう。
こんな時にRheuが居てくれたらと、Rheuがどんなに皆を力づけてくれただろうかと、是非もない事を
繰り返し思っては、又泣いた。
保育園はまだ休みに入っていなかったので、YK]は1人でバスに乗って保育園に行った。
1人だと嫌がるかと思ったが、泣きもせず保育園に行ったそうな。

SKは少し元気になると、足に点滴をされて歩くのに不自由なので、私はどこへ行くにも
おんぶして行った。
その内病院の車椅子を借りて使うようになったので、散歩させるのもずいぶん楽になった。
また元気が出て来ると、病院の給食はおかずは殆ど食べないが、ご飯だけはいつも完食した。
SKはホントに白飯が好きだ。
私とYが交代する時間になると、必ずパパとYKが一緒に来るので、SKは玄関まで送って来るが、
別れ際に大泣きをするのが恒例になった。
「あたい1人置いて行って行かん〜〜〜!!!」と言って泣くのだ。
それは私が家に帰る時でもYが帰る時でも同じで、自分も家に帰りたい一心だったようだ。
それでもしばらくすると泣きやんで、エレベーターを何度も往復させられた。
後で聞いた話だけど、YKも車の中で「SKちゃんが、かわいそう」と言って泣いたそうな。
SKの症状は比較的軽く、発疹は一日で引き、イチゴ舌にはならなかったので、舌から血が出たり
食べ物が沁みたり、食べられなかったりと言う事はなかったので、それだけが救いだった。
たまたま同じ日に同じ病気で隣に入院していた子は、SKよりは年齢も小さかったが、唇がいつも
血で汚れていて何かを食べたり飲んだりすると、痛がって良く泣いていた。
私はSKの病状が一段落して、回復に向かい始めるとSKの側に居てもつい涙が出てしまう。
SKが「ばあち、なんで泣いてるの?」と聞くから、「Rheuが居なくて寂しいの」と言えば、
「Rheu死んじゃったもんネ。ばあち、泣くとあたい(私)みたいに熱が出るよ」と言って私の
頬を両手で挟んで何度も何度も繰り返し言う。だから泣くなと言いたいのだろう。
自分のつらさを省みず、私を必死に慰めるSKを見ていると私はSKを抱いて益々泣いてしまう
のだった。
SKは何回目かの血液検査で、殆どの値が正常値になったので10日くらいで退院してきた。
幸い心臓の冠動脈に瘤もできていないと言うので、やれやれと一安心した。
ただこれは1ヶ月後2ヶ月後と、フォローしていかなければならないので、今できていないからと言って
即安心できるものでもないが、できてないのはとりあえず嬉しい。
それでも血小板(血液凝固因子)は発病直後よりも寛解してからの方が高くなるので、抗炎症剤と
血液が固まりにくくする薬は飲み続けなければならない。
甘み成分が入っていないので、不味いらしく病院に居る時から飲ませるのには苦労した。
が、退院してからは1回量は増えたけど、1日1回の内服で良いと言う事で、最初はカルピスに
混ぜて飲ませていたがその内、スプーンで薬を直接口に入れ、その後カルピスを飲ませれば上手に
飲むようになった。そして最後にはカルピスもなくなると今度は水で飲んでくれるようになったy(^。^)y
そうして薬が無くなる頃に次の診察があり、血液検査はほぼ正常。血小板も正常範囲の上限
ぎりぎりではあったけれど正常になった。
そして一番気になる心エコーの結果も良好で、もう薬は飲まなくていいと言う事になり2ヶ月後の
フォロー診察となった。



YKとSK

いつだったか私が泣いていたらYKが「なんで泣いてるの?」と聞いた。
「Rheuがいなくて寂しいの」と言えば、「え?!いるじゃん」と言うから「どこに?!」と聞いたら
「じいちゃんの部屋に写真があるよ」と言う。
YKはじいちゃんの部屋に行けば、いつでもRheuに会えると思っているようだ。
又別の日はSKがまだ入院している時、同じように寂しいと言えば、「え?!わたしがいるじゃん!」
と言う。「私は1人で保育園に行ったけど、泣かなかったよ。」と答える。
そうだね、YKはじいちゃんと留守番したり保育園バスに1人で乗ったりと、ホントにお姉ちゃんに
なったね。
保育園の先生に、この旨手紙を書いたら、すぐに返事をもらった。

『最近は、「あのね、Rheuがいないの…。」と寂しそうな表情をみせる事があったので、聞いて
みると、お正月はSKちゃんの入院で、初めて子供が1人と言う状況に寂しさを感じていたようでした。
YKちゃんなりに、頑張っていたお休みだったのでしょうネ。でも「何して遊んだの?」と聞けば
「Rheuと遊んだ」と言う事もあり「??」と思っていたのですが、お手紙を見て、写真のある
お部屋でRheuくんに見守られて、心強く遊んでいたのかな…?と思いました。
YKちゃんの心の中では、しっかりRheuくんが生きているのでしょうネ(^。^)
園でも随分しっかりしてきたな〜、頼もしいな〜と、感じる事が多くなりました。
お手紙を読み「おばあちゃん達はYKちゃんがいてくれて元気が出るって〜」と言うと、「ねえ〜!!」
と、そうでしょと言わんばかりのとっても力強い返事が返ってきたので、びっくり。
私がいるんだから大丈夫!!」と言うのが、すごく伝わってきました。「さみしい」より「ここに居てくれる
から大丈夫なの」と、強さにしているのかな(^。^)』


SKはと言えばこの頃少しずつ言う事が違ってきた。
最初の内は必ず「あたいみたいに熱が出るよ」と言って頬をなでてくれたが、その内額に触るように
なった。
そしてこの頃では、「Rheuいなくて寂しいネ。あたいも会いたいよ〜〜」と言って一緒に泣くか、
「ばあち大、大、大好き、じいちゃんも大好き、パパも大好き、ママも大好き、YKも大好きだから、
大丈夫!」と言って、私の後ろに回って「とんとんしてあげようか?」と肩を叩いてくれる。
僅か3歳にもならないSKのどこにそんな思いやりがあるのかと、私は唯々驚くばかり。
主人にその話をしていて、ふっとRheuが言わせているのではないかと思ったりして…
いやきっとそうだ。そうに違いない。
仕事の時でもお昼休みになると人知れず泣いてしまう私だが、家に居ると朝から晩までRheuを思い
出して、つい涙が出てしまう。
保育園バスに乗るのも2人、帰って来るのも2人なので、休みの日の送り迎えでは必ず泣いてしまう。
けれども、私が泣いてばかりいると、他の2人がどんな気持ちになるだろうと考えると、なるべく子供の
前では泣かないようにしようと思うのに、夜はどういうわけか何があっても「ばあちと寝る」と言って
きかない2人。
そうして、いつも「リンゴちゃんの歌を歌って」とせがむ。
『ねんねんぼうやのほっぺたは、まっかなまっかなリンゴちゃん〜♪♪…』で始まるが、Rheuが
この歌が大好きで、小さな声(寝るための歌なので…)で私に合わせていつも一緒に歌っていた。
だから歌いながら、Rheuがいた幸せな時を思い出しては、又泣いてしまう。
そうすると今度は、YKとSKが交互にティッシュで私の涙を拭いてくれるのだが、ごしごしと
力任せに、こするので結構痛い(^^;ゞ
子供たちは日々成長して私への対応もどんどん変わっていく。
2月も中旬を過ぎた頃には、SKが寝る前に「ばあち、きっと(?使い方間違ってるよ)泣かない
でネ」と言うようになった。
「そうだね、もう泣かないよ」と私も答える。
一家の中心は女なんだから、その主婦が泣いてばかりいては子供達も寂しがるし、家の中が暗くなる
から、子供のためにも笑っていなくちゃ」と言ってくれた人がいる。
「この世は修行の場なんだけど、Rheuくんはとっても良い子で修業の必要がないから、早くから天国
に、呼ばれて行ったのに、ばあちが泣いてばっかりいたら、ぼく悪い事をしているのかしら?と
いつまでたっても成仏できないよ。と、ああ、そうだ。私にはまだ2人の孫がいる。
この子たちのためにも、笑っていられるように頑張らなくては!とやっとこの頃、思えるようになった。
Rheuを忘れるわけではない。忘れられるはずもない!
でも、Rheuはきっと天国で私達を見ていてくれる。私の心はいつもRheuと一緒にある。
だから、もう孫達の前では泣かない。



死後の世界とは

茫然自失のまま葬儀を済ませ、7日ごとの法要は回を重ねるほどに実感が伴い、泣いて泣いて
泣き暮らした。
49日は言うに及ばず、100日経っても涙が枯れる事はない。
まるで一生分の涙を使い果たしたと思うのに、涙は後から後から湧いて来る。
中国では100日を慟哭と言うのだと、あるラジオ番組で言っていた。。
愛する人を亡くした悲しみは、たった100日くらいでは、癒されないと言う意味らしい。
私は身の置き所のない、喪失感や後悔や、怒りでいっぱいでこの身を持て余していた。

Rheuは、どこへ行ってしまったのだろう。
死後の世界はどうなっているのだろう。
私はいつもいつも、Rheuのいる世界はどんなところかと、そればっかりを考えて過ごした。
そして、それを知る手段として、その類の本を読み漁った。
大体は私の欲しい答えではなく、その場で処分してしまったが、何冊かの本は今も手元に置いて
読み返している。

『悲しみがやさしくなるとき』 エリザベス・メーレン著 白根美保子/福留園子訳
子供を亡くした親は「この悲しみはいつか乗り越えられるだろうか?」という大きな疑問を抱えています。
その答えは「イエス」でも「ノー」でもあります。
「ノーと言うのはあなたは決して前と同じあなたに戻る事はないという意味です。…しか
しこの疑問に関する答えは「イエス」でもあります。そうです。
いつかは必ずはじめの頃のように押しつぶされることなく、亡くなった子供を思う事が出来るようになります。

亡くなった子供に対する裏切りであるかのような罪の意識を感じることなく、愛したり、笑ったり、太陽の
光をいっぱいに浴びて幸せな気持ちになったりすることが出来る日がきっときます。
そして子供が生きられなかった時間を、子供の代わりにあるいは子供と共に生きているのだと、
実感するようになるでしょう。私達の傷は癒えます。
でも子供が私達の元を離れる事はありません。思い出と共に生きていくこと。
それは癒しの一部なのです。(ラビ、ハロルド・S・クシュナーによるまえがきより)


自らも子供を亡くした母親として、いくつかの例題をあげてその悲しみやその時々のそれぞれの対応を
書いたこの作品を読みながら、一緒に泣く事でその時だけは悲しみが少しだけ和らいだ気がします。

『永遠の別れ』 エリザベス・キューブラー・ロス
          デーヴィット・ケスラー著      上野圭一訳

愛する者を失った人にとって、悲嘆にくれるための正しい方法や時間などというものは存在しない。
二人の著者が本書を執筆した動機は、悲嘆とはどのような状態の事を言い、いかなるプロセスをたどる
ものなのかを読者に知って頂きたいと言う願望にあった。
したがって本書は、悲嘆専門のセラピストやカウンセラーが必要な時に、それに取って代わるものではない。誰もがいずれは経験する事になる、人生で最もつらい悲嘆の時期を迎えた時に、本書が暗い海に希望と
慰めの光を投じる灯台の明かりになることを、願ってやまない。(読者へのおぼえがき)

この頃、私は喪失感、失望、後悔などがないまぜになり、とても不安定な日々を過ごしていた。
時にわけもなく腹が立ち、周りにあたり散らしたり、気分が落ち込んで食欲もなかったりして、
45kgあった体重は40kgに減った。
最初は同情的だった職場の上司や同僚もいつまでも泣いていないで、そろそろ本来の自分に戻ったら?
と言う意味の事を言ってくるようになった。
けれどもこの本は、今ある私の状態が正常な反応なのだと教えてくれる。
無理をする必要はない。むしろ10年経っても忘れる事は出来ないのだと言っている。
愛する人の死を受け入れるまでに長い時間をかけて5つの段階を踏んで行く事で、やっと出来るように
なるのだとか。
私は今自分が5段階の内どこにいるのかを模索し、いつかこのつらい状態から抜け出せる日が来るのだと
思い聞かせる事が出来た。

『天国への手紙』 江原啓之
命とは何か。そして死とは何か。私が本書で説明するのは、霊的視点から見た死の定義です。
私達は肉体の存在だけではありません。魂を持つ存在です。
肉体の上に幽体と霊体と言うエネルギー体が重なり、この現世を生きているのです。
死とは、たましいが肉体から離れる事です。
私達の肉体は、現世を生きるためだけに通用する乗り物です。
死んだ後はご遺体となって荼毘に付されます。
けれど私達のたましいは、死んだあと消滅してしまうわけではありません。
様々な過程を経て、たましいのふるさとであるグループ・ソールに溶け込み、そこでまた再生を決意して、
現世へと繰り返し生まれ出る存在なのです。
肉体は滅びます。しかしたましいは永遠なのです。死とはたましいが肉体を離れること。
それは悲惨な事でも、残酷な事でも、不幸な事でもありません。
現世に生まれ落ちたたましいが、人生という旅を終えて、肉体と言う乗り物を降り、もといた世界に戻るという
ことなのです。
肉体を脱ぎ棄てると、あらゆる苦痛から解放されます。
長いマラソンを終えて、ゴールのテープを切ったような物です。後はゆっくり休めばいいだけ。
安らぎの時が待っているだけなのです。(本文:書き出しより)


けれどいつまでも悲しんだり、悔やんだりしていては、子供が安心して旅立てません。
それは幼い子どもを見送る場合も同じことです。
いつまでも泣いてしまうのは、心の奥に「自分がかわいそう」という気持ちがあるからです。
子供に目を向けるのではなく、自分の寂しさに目を向けているのです。
ただし、忘れる必要はありません。いいえ、決して忘れないでください。
「生まれていれば今、○歳になった」などと考えて、常に心の中で育てていくこと。
それが供養になります。
「死んだ子の歳を数える」という言い方があります。むなしいこと、しても仕方がないことのたとえとして
使われるようですが、とんでもない間違いです。
霊的視点から言えば、死んだ子の年は数える方がいい。数えてあげるべきなのです。
幼児霊は、向こうの世界でおおよそ20歳になる頃まで成長します。
その成長を心で思い描きながら、逢える日を楽しみに、心の中で育ててあげましょう。
もし弟や妹が生まれたら、「あなたには、きょうだいがいたのよ」と話してあげてください。
おいし物を食べる時は、心の中でその子にも食べさせてあげましょう。
そうやって日々の暮らしの中でその子に気持ちを向ける事はできるはず。それこそが供養になります。
子供が求めているのはただひとつ。親の愛です。
それは生きている子供でも、亡くなった子供でも同じなのです。
(本文:流産で子供を亡くした場合から)


供養にはさまざまなセレモニーがありますが、全てについて形ではなく、心を重視すべきである事は、
今まで述べてきたとおりです。死んだ人と生きている人間の間に境はありません。
生きている時と同じように故人に対して抱く思いは、口に出して下さい。
「亡くなった人にはもう何も伝えられない」と思うのは間違いです。
こちらが伝えたいと思う事は、すべて向こうの世界に届きます。
心で思うだけでも届きますが、言葉に出すともっと強く届きます。
思いをただ心の中でつぶやくよりも、発音した方が音魂がこもるからです。
文章に書くのもとても良い事です。(本文:泣き人とのコミュニケーションより)

もう何十冊と本を読んだ後のこの1冊が、私の生き方を変えてくれた。
今まで全くの無信心で、死後の世界や輪廻転生など、あるわけがないと思っていた。
けれども、Rheuは現世とは別の世界で楽しく生きていると信じ、風に乗って様子を見に来てくれるから
一緒に生きてみようと思った。
それまでは見るのも、思い出すのもつらくて、遺影が飾ってあるだけだったが、本を読み終わってから
早速、妹達と一緒に写っている写真を大きくプリントして、額に入れて飾った。
誕生日には、バースデーケーキではないけれど、ショートケーキをこちらは嫁が買ってきてくれる。
日々の生活の中で、Rheuの事は他の子達と同じように、話題にのせる。
ミカンやリンゴがあれば「Rheuは皿に残った汁まで吸うくらいミカンが大好きだったわね」「りんごは毎年
10kgを2箱買っても足りないくらいだったわね」「雪が降ると真っ先に跳び起きて庭に出て行ったよね」等々。

あれから5年が経った…姪が言ってくれたけど永遠に続くと思われた悲しみも少しずつ薄れてきている。
悲しくないわけではない。心の穴がふさがったわけではないし、冷たい風が治まったわけでもない。
けれど、Rheuの居ない生活には、やっと慣れてきた。諦めたと言うべきか…
妹達がRheuの年を追いこして、背丈も追い越していくのを見ると、生きて大きくなったRheuを見たいと思う。
切実に見たい…せめて盆と正月だけで良いから…いいえ、1年に1回で良いから、会いたい。
この思いは仏壇に向かうたびに、一度は口にしてしまう。
けれど、自分が死んだら再び会う事が出来ると、この本が教えてくれるから、それを心のよりどころにして
生きている。
元々、花を育てるのは好きで季節の花を所狭しと植えてはいたが、今はRheuの為に花を植える。
仏壇の花を1年中欠かさないように、四季折々に花が咲くようにと、願いを込めて花を作る。
Rheuには花より団子じゃないか?花を飾って喜ぶかしら?と思ったけれど、花を飾る事には意味があるの
だと知った。あなたを忘れた事はないよと、花を飾り、水を替えるのだそうな。

天国の子供達から ドリスストークス著 江原啓之 監訳
                         横山悦子 翻訳


死は特別なものではなく、隣の部屋に移った、ただそれだけのこと。
私は私であり、あなたはあなたです。
たがいに何があっても私達は変わらないのです。
昔の名前で呼んでください。口調を変えず悲しみを忘れ、いつも話していた言葉で話しかけてください。
冗談を言い合っていた時のように、笑ってください。
私を思い出し、私の為に祈ってください。
いつものように、家族の会話に私を出してください。意識せず明るく話してください。

だから私のように子供を亡くした親御さんたちは、どうぞ亡くなった子の部屋を神聖な場所として残さないで
ほしいのです。
去ってしまった子供ばかりを振り返るのをやめてほしいのです。
短い間でも、特別な子供を授かり、喜びを与えられた事を神に感謝し、いつの日か、あなたが役目を終えた
時に、又あの子に会えると言う事を覚えていてほしいのです。(本文より)


今まで江原啓之のテレビ番組を見たこともなかったけれど、『天国への手紙』で著者が絶賛していたので
読んでみた。奇跡というべき事柄がいくつもの例をあげて紹介されていた。
十数年前からパソコンの魅力に取りつかれ、本を読む事をすっかり忘れていた。
消えてしまいたいこの身の苦しさを、いっときでもやり過ごすために読み始めた本だったけれど
私は多くの事を学び、同じ苦しみを抱える人たちの思いに触れ、いつかこの悲しみがなくならないまでも、
前を向いて歩く事を始められるようになった。

他に『えみりの赤いランドセル』風見しんご著 『心にナイフをしのばせて』奥野修二著 などは、

子供を亡くした親の心情に寄り添いながら、どうやってこの時期をやり過ごしたかをみせてもらった。
人まねであろうとも、この現状を抜け出す手段が欲しかったのだ。
そして5年経った今、愛する人を亡くして何も考えられないでいるだろうあなたに、伝えたいのです。
おこがましくも、このページが少しでも、あなたのお役に立てたら幸いです。
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